週末夏時間が始まり、いきなり夜が明るくなったので、まだ身体が慣れない。一時間の時差って「早寝早起き」レベルでは一番適応しにくいよう。しかもお向かいの工事が終わったので朝日が強烈に私の就眠スペースまで侵攻してきて、朝からすごいくしゃみがでる。とまれかくまれ、パリは春真っ盛りでございます。
 花の咲きっぷりときたらもう不謹慎もいいとこ。桜と菖蒲とレンギョウとボケと山吹とがいっぺんに咲いているなど、おとなしく順番守れよと言いたくなる。というようなことは三年前クレルモンにいた時も書いた覚えがあるけれど、今言うとまた違った響きがするね。
 言葉の、その時に発せられたからこそもちえた必然性や意味を丁寧に拾い上げたい。と同時に、言葉しか残らなかった時に、その言葉を手掛かりに考えたり探ったりしたくなるような言葉を残したい。と、言葉という言葉をつかったけど、美術史の作品研究もその二つを突き詰めるとこにあるようにも思う。

 震災の後、自分の中のもやもやや考えや何かを、ちょっとでも間違った出し方をすると誰か傷つけたり何か著しく損なってしまう気がして怖くて(勿論そんな影響力ないんだけどさ!)余計萎縮してしまうのをなんとかしたくて、多分こういうときの解決法としてはあまり良くないだろうけど、色々な人の文章を読んだ。かなり偏ったのも、人の言葉のオウム返しみたいなのも、読んでるだけで怒りが沸騰してくるのも含めて。そんななかで、とても「効いた」ものの一つが阪大の学長の鷲田清一先生の卒業式式辞(http://www.osaka-u.ac.jp/ja/guide/president/files/h23_shikiji.pdf)。まだ大学とか高校にいる人たちにも大人にも、色々考えさせられるし、自分にとっては喝!という感じでもあった。
 折しも報告書の締め切りが重なり、日本語ばっかり読んだり書いたりしがちなので(それにしても三年前と比べてフランスにいて読める日本語の文章のヴァリエーションが格段に増えたのは、私が探せるようになったのか、パリにいるからか、ネットに上がってるものが増えているのか、お陰でほとんど中毒症状を起こしていない)、またしても同居人の留守を狙って朗読したり歌を歌ったり。『カンディード』は何度となく読むけど、凄い好きなとこのひとつは、パングロス師匠が最後の最後まで一向に改心しないとこである。…嗚呼、これって無神経?不謹慎?