雨の降るまえに大徳寺を散歩した。まだ、はやい。どんよりとぬるい空気もいけない。なんだか、重い雲の下、半端な紅葉を足早に観光する人々が哀れに思われてしまった。京都は私を贅沢にした。全く困ったことで、分不相応な贅沢に悩む私はまるで『四人の姉妹(Little Women)』の長女メッグのよう。でも、一瞬の美しさに敏感になるのは素敵なことだ。
 霜葉は二月の花より紅なり
 和漢朗詠集かなんかの一節で、かなり有名らしいが気に入っている。「霜」や「二月」という言葉による、凍てつく寒さ、もみじをあえて「そうよう」ということで生まれる冴え冴えとした響き、それに対する「花」の「くれない」の持つ匂い立つような官能。これらが溶け合う、というよりは拮抗しあうことによる緊張感は、脊髄に響くようで心地いい。
 当然こんな表現を知ると、もみじには厳しくならざるを得ない。ところが、紅梅よりさらに赤い、という言葉が単なる比喩でないと思わせるような光景を、私は見てしまった、何度も。それどころか、この表現にすら限界を感じるほどの一種、霊気を帯びたイメージを。
 紅葉よ、私を感動させるのは難しいよ。