七人の侍達が、二泊三日、南紀白浜に出かけてきた。
 
 初日は春一番の大嵐だった。海は大荒れ、横殴りの雨と風。外にでた瞬間に全てがしょっぱくなる。生暖かく湿った暴風で髪の毛は漫画みたいだ。田辺市郊外の南方熊楠記念館で、粘菌や毛筆で筆写したノートを観た。南方は、生涯本を読むとその内容を筆写することで覚えるという方法をとっていたそうだが、その文字の繊細で几帳面なこと。19ヶ国語を解し、独学で大英博物館の研究者とかやって、民俗学神道の著作も数多くある、少し思いつめたようなより目が印象的な「漢」である。
 ちょうど岬に位置する記念館の近くには、天然の洞穴や廃墟となったトンネルを通ってがけの上に出られる場所が点在していた。切り立つ崖、砕ける波、灰色の空に立ち込める雲、廃墟の塔にたたずむ男!これでもかというクリーシェを前にして、黙って帰るわけには行くまい。私たちは、塩辛い上着をさらにごわごわさせ、目の周りなんか風と塩気でひりひりさせながら、渾身の力を込めて、『水曜サスペンス・愛しすぎた男』を撮影した。というのは嘘ですけど。
 この調子で書くのが恐くなってきたので少し方針転換。
 旅の間、通底していたテーマのひとつを挙げるなら、不在の存在といっていいと思う。あるものではなく、ないものに、可能性を断ち切られてしまったこと自体に強く惹きつけられてしまうこと。
 「ないもの」を表現することは、映像にはめちゃくちゃ困難だ。けれど、目の前でそのミッション・インポシブルに、何とかして解決策が築き上げられていく。ことばと映像が競合する現在進行形のパラゴーネ。これはなんか新しい星が生まれるのをみるような、最初の細胞分裂のような感覚だ。
 映像というのは、思うに、徹底的にカメラの位置を意識させる。ただの動く絵ではなく、動いたり動かなかったりはするけど一点から捉えた、一点に取り込まれた吸収された所有された時間をもつ平面。それを創るために、それぞれ一点からの視野に縛られた一人一人が、おなじものを見て、違う視点から解決策を探してボールを回しながら最終的にカメラの位置関係を決めていく。一点からの視点に生涯縛られているはずが、ちらちらとその場にいる仲間の視点や、映像を見るはずの人の視点から物が見えてくる。それは、完成品の映画や小説に没頭する時に、他の視点でものを見ることが出来るのとは、また少し違っていて、はかなくて説得力に欠けていても、「生(なま)」の可能性をもっているものだ。これって、映画の面白さのなかでかなりおっきな部分なんじゃないかなあと思う。

 上に書いたようなことは、ありふれていて今更指摘するまでもないことなのかもしれない。ただ、外堀をうめずに、飛び込んで手で触れてみて感じたことを敢えて少し硬い言葉にしてとっておきたくなったのだ。
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 言葉は強い。保存は利くし、ないものを表現するにも便利だ。人によって伝わるものの誤差が出にくいものでもあるんじゃないかと思う。もちろん、うまく使えるかによるけれど。でも、その分、恐いのは、言葉にしそびれたものが、なかったもののようになってしまうこと。どんなに頑張っても言葉に変換できないものは、言葉に変換できたものの眩しさにかき消されて、はやく色あせてしまうんじゃないだろうか。
 経験が熟すというのは、言葉になるものとならないものが上手いこと記憶の中で混ざり合って一つになっていくこと。未熟な考えは早く言葉にしてから吟味して練り上げたいけど、その場の感触や印象は、言葉の世界に投げ込むには少し早いかもしれない。よって、今日は、これまで。悪文御免!