顔をなくした夢をみた。多分飲みすぎたのだ。
 百物語のような感じだった。壊れた空調のようなぶーんという音が断続的に響いて建付けが振動していた。全体にぼんやりとしているなかで、一人の声だけが妙にはっきりと聞こえる。声は大きいのに物語はずいぶんと遠くにあってよくみえない。見えない見えない、と思うと視界の全体がぼんやりとしていることに気付いた。
 それに気付いた途端、全体がぼんやりとしているのではなく、はっきり、ないのだと気付く。顔だ。
 語っている男には顔がなく、周りにも顔がない。私にもない。ここで、自分の顔がないことよりも、顔がなかったことに気付かずにいたことの恐怖がじわじわと広がっていくところで目が覚めた。
 確固とした意見、信条、そんなものは普通に生活を送るのにはどっちかというと邪魔になることが多いとは思う。けど、あんまりぼんやりしてると、自分の意識の及ばないところで妙に大きな力の形代みたいな役割をしてしまっているかもしれない。無意識に何の罪悪感もなく人の心だってずたずたにできるだろう。そうなると抜け出すのは容易ではない。チェスタートンの『木曜日だった男』で一番怖いところの一つも、自分では主義主張をもたない(そしてそのことに気付いてもいない)村人たちが雪崩を打って追ってくるところだと思う。
 自分だって、ちゃんと顔をみせてしゃべっていないんだ。そして、自分の無意識は、場合によっては自分の無意識に終わらない大きなものを勝手に連れてきてしまう。
 首筋から雪玉を落とされるような出来事だった。