何のことはなく、「図らずも」と「奇しくも」はなんとなく使えるようになったけど、「いみじくも」はつかったことがないから、今度使ってみたいな―という話。昨晩は図々しくも科研の報告会ののち先生方諸先輩方にのこのこついて鍋など頂きつつ妙な質問をしたりし、今朝は昨日の今日で穴があったら入りたい気持ちのままぐずぐずして早く起きられず、仕方がないのでお弁当用に牛しぐれ煮を仕込む。
 ヴァレンタインだというのに、今日食べたスイーツはあんぱんだけなんて!
 以下は珍しくも追記だ。
 図書館の電子化がぞくぞく便利になってきてて、ものすごい速さでものすごい量の文献がデータ化されている。で、負けずに自分も自分の持ってる本や論文なんかはどんどんPDF化して、どこへいっても持参でき、かつ散逸しないようにする(ところがデータをどこにおいたかわからなくなるという事態もままある。すーごい頑張って整理してるつもりが、やっぱり部屋片付け&根性叩き直しからやらないとだめかしら)でもってアクロバットでPDFのイメージをにもかかわらずテキストで検索できるように変換してしまう…と、すごくって、単語を入れたら簡単に全文のどこにその言葉があるか割り出せてしまうようになる…。
 となると、本当のところ、全然読んでないのにうまいこと引用とかして取り繕うことが可能になるわけだ。なんていうとびっくりするかもだけど、世の中には、大学なんてところにいても、読まずにすむものならなるべく読まずにいたい種類の人々、読むのあんまり好きでない人ってのは結構いるもんで、かくいう私も、よまないかん論文がたまると紙パック飲料の成分や電化製品の説明書まで黙読した少女時代を忘れそうになります。
 で、こんな事態になると、きっと色んな人が、「読まなくてもできるような気がするからこそ読むことの本当の意義が云々」とか言い出すかもしれない。でも、それは全文きっちり「読む」経験に付加価値がつくような読み方をマスターしてる場合に限ると思う。例えば学部生のレポート如き(どういう種類のレポートかははっきりさせないので、あくまで適当な話なんですが)だったら半端に流し読みして下手な感想文書くより、ちゃきっとキーワードいくつか決めてこれはいくつあるとか割り出してやった方がなんかましなものが仕上がるんじゃないかしら。そうすると本とか論文を全文読むなんてのは、割と高尚で優雅な行為になるのかもしれない。少なくとも、いかにデータがしっかりしてても、読むのが愉しくないものは、きっと、うまいこと骨の部分だけ検索して読んだことにされちゃっていいような雰囲気になるだろうし、でも何か割り出すには反例?例外?みたいなのんがないかをやっぱり全部読んで確認せざるをえず、その作業はきっとかなーーーり、苦痛に満ちたものになる気がする。
 ところで、最近手帳とかペンとかリップとか「検索」したくなるわけです、これも多分皆様ご承知のようによくあることなんですが。