レイデン、デ・ラケンハール美術館蔵のダーフィット・ベイリー(David Bailly, vは濁ることもあるそう)によるこの作品は、画家という生業についての象徴が重層的に織り込まれている不思議な作品だ。
 中でも興味を引くもののひとつが、左で自信たっぷりに画家棒と板絵をもった描かれた黒い衣装の男。ベイリーの自画像といわれており(異論もある)、彼が手にしている板絵の男も彼自身の肖像だそうだ。だが、板絵のなかのベイリーはそれをもつ男に比べて、髭を蓄え、大分年長に描かれている。
 ところが、私たちが目にしているベイリーの作品を描いたとき、ベイリーは、画中画の、つまり年取った方の自画像のころよりも10歳ほどさらに年を取っていたらしい。
 !!つまり、この説明だと、彼は、自分が十年前に描いた自画像を、その十年前より(おそらく)遥かに若い自分自身に持たせたところを描いているということになる。何で?何がしたかった?
 …ここで、左の男は画家自身でない説を採るなら多少はシンプルだし、仮に画家自身としても、右側にきらりとひかる「ヴァニタス」の文字から、「自身の芸術が時に打ち勝つ力を持っているということを表現」的なもっともらしい理由は挙げられるんだけど、その前に、単純にかなり面白いことをやったもんだと思いませんか?
 歴史というのは情報を詰め込むのではなく遡ること。

ミシュレとルネサンス―「歴史」の創始者についての講義録

ミシュレとルネサンス―「歴史」の創始者についての講義録

 フェーヴルが遡って語るミシュレを私が遡って読む。なんてことの不思議に思いをいたすうちに、この画家の肖像のある静物画の捻くれた入れ子を思い出したので紹介してみたのでした。

非常に発達した技術伝播によって、ある同じ時期に同じ技術的設備を手に入れたとしても、すなわち、あらゆる国が電信や電話、ラジオ、映画、鉄道、自動車、飛行機、(…)戦車などをしっていたとしても、だからといって、それらの国が政治や哲学、宗教、倫理において同じ程度の経験をしているわけではないということ。
(…)ある国は100年前に独裁を経験し、その利点だけをのこして独裁を捨て去ったというのに、べつの国はまだそうせずに独裁を取り入れているということ。しかも、現代の強力な道具すべてを−ラジオ、電話、飛行機、統計、行政機関、教育などのように、人間の理解、管理、制御、支配を可能ならしめるものすべてを−独裁にも悪用できる時代にそうであるということ。
また、ある国は、100年以上前に民族の概念を歴史のなかで用いて、すでに100年前に長所だけをのこしてその概念を捨て去ったというのに、べつの国はまだその経験をもたず、つねに民族の概念を固守し信じているということ。
また、ある国は100年以上、いや2〜300年も前に征服欲を−力で領土を支配しようという欲望を−満足させてしまい、そのような経験を終えた今は、消えゆく煙のような−そのはかなさを二度、三度と思い知った−栄光を求めて行動することもなくなったというのに、べつの国はまだ暴力によって領土を拡張する欲望を満足させておらず、戦争を信じ利用しているということ。
しかも、かつて戦いに使われていた方法とはかなり異なる兵器で戦争が行われている時代にそうであるということ。そのようにして起こる戦争は、時代遅れで古めかしい観念と現代的で新しい観念とが驚くほど混ざり合って出来た思考によってすすめられているということ。…(263頁、改行は引用者)

ちなみにこの講義は1942年に行われたもの。