大学の方の授業で展覧会の見学に行く時には、度々先週のように企画した先生や学芸員が解説を付けてくれる。贅沢極まりないことだし、非常に勉強になる…のだが、帰り道にふと、あれ、作品あんまりみてないや、と気付くことがままある。考えてみれば無理のない話で、企画者としては、飽きるほど見てた作品自体よりは、企画の意図や、それを実現する際の現実問題との兼ね合いとか、削りに削って書きあげた章ごとの文章に本当は載せたかった作品や作者の情報、それに至るまでの汗と涙の裏話などなど、とにかく話したいことが沢山あるのだ。もちろん、普通ならカタログと展覧会とをにらめっこして再構成してやっとたどり着けるこれらの話が貴重で役に立つのは言うまでもない。自分も実作品から出発して展覧会なり論文なりを構成する仕事をしていきたいのだから、展覧会や美術館でもある程度俯瞰的な見方が出来なければいけないとも思う。
 一方で、今期は自腹を切ってエコール・ドュ・ルーヴルの講義と実地見学に参加しているのだけど、この実地見学は純粋に面白い。本当に作品を前にして、一つ一つ納得しながらかなり専門的な話までするので至福の時間だ。今日は17世紀フランス絵画。その中に、こちらも。

 ジョルジュ・ド・ラトゥールはこっちでルーヴル通いをするようになって益々好きになった画家の一人だが、中でも気に入りの《キリストと大工の聖ヨセフ》(1645年)。茶から白という、ほとんどモノトーンでありながら驚くほど温かみのある色調。仕事をするヨセフとろうそくを掲げてそれを助けるイエスを、一点の光は切り取るように鋭い輪郭で浮かび上がらせる。ヨセフは、神とかなんやよくわからない、とにかく自分のではない子供を身ごもったマリアを悩んだ末に受け入れて、マリアの夫・キリストの父となる。ということを考えるとなおのこと、血の繋がっていない父子の信頼に充ちた視線のやり取りは奇跡的で人間的だ。イエスとヨセフの背中、それを包み込む暗闇でがっちりと閉じられた二人の人物のまとまりは、私たちのすぐ近くに置かれて親密さをより深める。イエスが掲げるろうそく(その前に置かれた小さな手から透けて見える光の暖かいこと!)は彼自身の後の復活の象徴でもある。
 キリスト教では、四月の復活に備え、今は四旬節(カレーム)という準備期間に入っている。始めてフランスでミサに行ったのが五年前かな、のこの時期だったので記憶に残っているのだが、洗礼を受ける人にとっては準備期間、他の人にとっても(非常に大雑把にいうと)初心に戻って悔い改めて復活を待つ色彩が強いものらしい。(昨日は静かに家で過ごしていたので行かなかったのだけど、ノートルダムでの追悼祈念もカトリックの習わしに従いこの枠で行われていたはず。)
 私は、この宗教と向き合う自分なりの立場があまりはっきりわからないのもあって、宗教画をがっつり研究するということをいまのところやっていないのだが、毎年この時期はクリスマスなどよりよほど、宗教主題に込められてきた人々の想いに近付く気分がする。そんなものなので、却って宗教画を全くの客観的対象として研究するのもなんか違うような感じがするのだ。
 ちなみに(ええっと、ここからくだらない話になるので注意)、復活はフランス語ではrésurrectionとなる。と、書くとなめらかだけど、発音はレジュレクシォン(レは舌の奥と上の口蓋を震わせるアレ)、なんとも鼻炎な響きのする言葉である。時に、四旬節には熱心な信者は暴飲暴食を慎み、肉ではなくニシンとか魚類を中心とした質素な生活をおくる習慣であった。一方、昨日、たまたま花粉症を悪化させる食事を調べていたら、肉や甘いもの、アルコールはよくないらしく、そもそも食べ過ぎも駄目だそうだ。キリスト教の伝統は実は近代人の宿命たる花粉症を予防する効能をもっていたのでは…なんて思ってみたりして。