京都は五山の送り火があったはずの本日、旭川には避暑に来たはずが、意外と暑いので午後は昼寝して夕食後にのこのこと仕事をすることになる。季節滞在者の作業机のある仏間には風鈴がかけられていて、風が吹くたびに快い音がする。
 そういえば今回移動中は『生物と無生物のあいだ』を読んでいたんだった(途中で読み終わってPCに入ってる『シャーロックホームズ』のおさらいをしていた)。内容としては結構いろんな機会に聞いたことのある話なんだけど、理系の人々の知性の在り方についての偏見を覆す、とても幅広くて面白い読み物でした。
 生物たるもの、絶えずそれを形作っているタンパク質やらが入れ替わって移動して分解しては造ってを繰り返しているという話、そしてそれを成り立たせるための複雑な約束事は、とても不思議で神秘的であり理にかなっている。それを想像してみるのは、とても気持よく疲れた日に眠りに落ちる前に、身体の中を空気が何の抵抗もなく通り抜けているように感じることと似ている。
 思いだしたのは、竹山聖という建築家の先生が(とても素敵なお風呂を作る人で、黒のスタンドカラーのシャツとかを着ていた)最初の授業で「都市とは何か?」というお話をされていたこと。学部入りたての私はそういった問いにどういう風に考えたらよいものか見当もつかなかったんだけど、先生のお話では「ノマド」、つまり、移動して歩く人たちが少し止まって交流する、その場所、というよりはふるまいみたいのんがキーワードであるそうだ。
 同じ場所で同じ形をしているように見えるけれど、中身は絶えず入れ替わっている、それが元気を保つ秘訣だということは、例えば私たちの指先を作る細胞の一つ一つに模型のように埋め込まれていただなんて、7世紀とかのヴェネツィアの人たちがきいたらどう思ったでしょうね。前回留学準備をしていたときにも帰ってきたときにも憤慨したことだけど、この世の中は本当に、「定住するひと」向けに出来ている!でも、そうみえるんだけど、この住民票やらビザやらヴァカンスやらといった七面倒くさい手続きの数々は、移動する先でうまく適応して活躍しやすいパズルのピースの形をつかむための一種の洗礼なんだよね。

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)

生物と無生物のあいだ (講談社現代新書)