ここで(マンガはなぜ面白いのか: わたしが知らないスゴ本は、きっとあなたが読んでいる)をみて

小説の線的、マンガの面的側面を表すのに、一つの小話がある。生まれたときから盲目の子が、母に向かって「見えるってどういうこと?」と問うたとき、母は「遠くのものまでいっぺんに触れることよ」と答えたという。第一行から始まって、順番に遠くまで触ってゆくことが小説を読むことなら、「ここ」からいっぺんに遠くまで見渡せるのがマンガだ。

とあって、この遠くまでいっぺんに触れるというのは凄いなーと思った。そこで少し飛んで、ドイツ語ではテレビのことを「フェーンゼーア」といって、これは遠くを見るということだというので、なんと合理的な、と感心しかけたが、思えばテレ・ヴィジョンもそうなんだった。そう考えると可愛いのは「テレビ」という言葉で、私はテレビ自体は大した好きでないがこの言葉は「ずぼん」みたいでちょっとお茶目でいいなと思う。
 大教室のセミナーで、「モンタージュ」の話。ユベルマンという有名な美術史家(でいいのかしら)で、本も難しいけどしゃべることも単純ではない。でも多分、議論に登場する弱くて傷つきやすい(私の理解では)思想家や芸術家たちの系譜を受け継いでか、あくまで具体例に根ざし、ゆっくりと聴衆ひとりひとりに問いかけるように囁いて共感しようとするスタイルは大層気にいっている。要は、授業の進め方の「身振り」を内容に一致させることに意識的なところに誠実さを感じるのだと思う。影響力のある人間が階段教室を埋める聴衆に対して壇上から言葉を発することの危険性に自覚的なのかもとも思う。案外、聴衆が「好意的に煙に巻かれてくれる」にはどうしたらいいのかを研究し尽くしているということかもしれないけど。
 で、今この授業で例として見せられるモンタージュはイメージの同時的な組み合わせ(一つの面に張り付けたものと、その集合)で、例えば今している話は小説とか映画とかで時間的にイメージが編集された、もっと私たちが普通に使うモンタージュの場合にはどう変わってくるのかしら。
 クレルモンで久しぶりにピアノを弾いたら、またちゃんと弾きたくなった。