京都にいたら待ちきれない花が気がついたら咲いていた。ほんとに咲いてるんです。うそだと思ったら観においで。色々な種類が一遍にでなくぽつぽつと咲き出すあたりは、山っぽいなーと思う。桜は色が濃いめで葉っぱと一緒に出てくるタイプだ。春なのに何もまだ終わらないし始まらないというのは変な気持ちだ。今からどうやらスケートに行くらしいし。
 水曜、チューター*1にレポートの添削みてもらってたら、「最近ブディズムに興味があるんだけど…」ときました。映画祭の時にシンガポールの女性にオーラを見てもらうという不思議な体験をしたそう。
 さて、私は結構、自分が「フランス人的気質」に近いと感じることがある。それは食べるものとか食事の雰囲気を大事にするところとか、気分屋で自分の生活リズムを崩したくないところとかが代表的ですが(もちろん完全に違うと思うところもある。デザートの後にコーヒーを飲むところ、どこにでも友達と一緒のところ、電車の中でじっとしていられないところ等*2)、もう一つ近いと思うのは、凄く合理的・論理的であろうと思ってる割に、言葉で説明できない神秘的・精神的なもの、よくわからないけど凄そうなものに、妙に弱いところ。
 よって、彼が仏教に神秘的なものをみるあまりに、チベット(っぽい)仏教に南米の先住民のアニミズムまでごちゃ混ぜて感動しててもちょっと突き放して馬鹿には出来ないのよね。それは、十分共感できると思うので。
 普段は目に見えるもののことで手一杯だからたまにちょっと深淵そうな話が出来ると実はうれしい。とはいっても脳が喜ぶほど突っ込んだ話がフランス語で出来ようはずもなくたちまち壁にぶつかるのだけど。ただ問題は言葉だけじゃない。
 と以下書いてみたんだけど酷く混乱してるので適当に飛ばしてください。
 「カトリックでは弱さをさらけ出すことで絶対的なものが助けに来てくれるのを待つ」と彼は言って、私は理解する。シンプルな議論だからというのもあるけど、全く未知の考え方じゃなく、知識として下地があるから。でも続けて、「東洋ではみんな自分自身の中に神みたいなのがいて、だから個人は弱いものじゃなくて強いんだ」といわれると、私の感覚の中にそれに近いものはなくはないんだけどそういう言い方をされると何か根本的に違ったものになってしまった気がする。では、何が違って、私の感覚がどういうものなのか、自分の納得のいく言葉で説明できるだろうか。これは、日本語でも難しいと思う。さらに、もしぴんと来る表現が見つかって、その上外国語に巧く出来たとしても、感覚はおろか知識の下地も十分に持たない相手にそれはどれくらい伝えられるのだろう。
 彼の前半の言い分は、既存の極端に図式化された表現を使うことで、たぶん実際の感じ方とは離れてしまってはいても、イメージを上手いこと伝えられていると思う。さて、私のほうは、私の感覚を理解してもらいたい、と思う。でも相手からすると私個人のことは最終目標ではない。とすると、私は、自分の個人的な感覚にビンゴで他の人に伝わりにくい言葉を捜すより、相手の持っている感覚を使って、現在の相手の考えよりは少し自分の考えに近い別のカリカチュアを提案することで共通の下地を広げることを考えるべきなのかなと思う。

*1:一般的でわかりやすい言葉なのでチューターにしてるけど、勉強の相談のためでないので若干違う。登録した学部生が、四人くらいの留学生を受け持ち、パーティーなんかを企画して交流の場を作ったりトラブルの時に助けてくれたりする。留学生課と学部が共同で運営していて、フランス人学生の方はこれが選択科目の単位になる。

*2:フランス人がね、念のため。