ロータリの会合のため、今週末はシャンパーニュ地方のエペルネというところで過ごす事になる。
 HappinessはPinkのChampagneの泡のようなものだって君が言っても、わたしはどっちかいうと気が重いよ。なのに今朝往きの電車の切符を買ったらものすごくやる気ある人みたいなスケジュールになってしまった。誰もクレルモン〜パリ、パリ〜エペルネの接続なんて考えちゃいないんだから。
 それで元気付けに写真の沢山のった大聖堂の入門研究書シリーズからランスの巻を借りてきて予習する。天気も人も自分の力ではどうにも出来ないことが多いけど、大聖堂は多少楽しみにしていても期待に応えてくれるだろうとの魂胆だ。作品が待っていてくれれば何があってもなくてもちょっとは必ず幸せだから。
 こう書いてしまって、薄々感づいていたことだけど、かなり核心に近いところにきた気がする。つまり、私にとって研究は手段でしかないのではないかしら。素敵な美術館があると言われれば、氷雨が降ろうが何箇所で邪険に扱われようがユースのシャワー室に髪の毛が落ちていようが深夜まわった浮浪者のうようよしてる寒い駅で遅れた寝台列車を待たされようが美味しいご飯になかなかあり付けなかろうが旅を続けられる*1。少なくともそれだけの元は取れるのだ。そのくせ、いい風が吹いたら絵も彫刻もほったらかしで川のほとりで一日道草しても平気だ。綺羅星の才能が残した幸せの約束をたどってそれ以上の冒険を追っている。なんていう贅沢。申し訳ない。でも、欲張るならこれくらいしなきゃね、と私はこの思いつきにちょっと満足している。わが手段に不足無し。それに、幸せの約束がとんでもない冒険だって事もちゃんとたまーーーーにはあるしね。

*1:これ一つの街で起こったことだ。しかも更に上(下か)をいくアムステルダムという強敵がいる。