その後母上がやってきて、らーめんやらお好みやら、生ハムやら三笠やら食べて大層満足の様子で帰って行った。
 残されたわたくしはオケの定期演奏会の京都公演を見に行き、こちらも大層満足し、チーズの溶けたのが食べたくなって、三条木屋町のサルヴァトーレとかいうお店でピザ。値段は予想の1.5倍だったが、場所と出来栄えを考慮に入れれば素敵だった。友達と一致した見解としては「小さいピザほど悲しいものはない」ので、若干ぎくっとするくらい大きくて、乳臭いモッツァレラがたくさんのってたので満足。ただ、帰り際の「グラーチェアリベデルチ!」という掛け声は微妙。本場っぽくしたいのなら女の子にはグラスワインもうすこし多い目に注いでくれるとかどうでしょう??
 そんなこんなんが終わり、昨日はとりあえずのんびりと、隣の図書館でフェリーニの『そして船は行く』をみて、静かに感じ入っていた。こういうのをよく出来た映画というんだろうな。どうしても取り戻せない、失われた過去であること、いまとは断絶した美しい時代であることが、基調に流れていて(大時代にロマンチックな音楽と絵の中から出てきたようなひとびと)、中に現代のヒロインみたいな女の子が一人だけカラーみたいに目立っているものだから、余計に背景が完成されているのが強調され、その危うさが悲しかった。
 一次大戦を挟むと、危うさは露呈して全体を侵食する。ラヴェルの『ラ・ヴァルス』は、分解していくラピュタのように断絶し食い違って混沌としてゆく。記憶のなかの美しいワルツを再現しようとするんだけど無理やり酔って麻痺した頭ではうまくいかない。本当に心から楽しい気持ちになることなんてもう出来ないんじゃないか。むしろクライマックスを迎えてしまうことが怖くて、自分から引いてしまう。絶頂恐怖。だからといって、踊りをやめて何をしろというのだ?
 管楽器の光沢感は大阪の方がよかったけど、壊れっぷりは京都の方が楽しめた気がする。そして、ラ・ヴァルスが入っていることで、ブラームスのほうは、ただその完成された小世界に没頭するだけでなく、21世紀の聴衆としてはどうしても一抹のノスタルジーを覚えてしまう。というのは、フランスびいきの私の考えすぎでしょうけれど。
 個人的には妹の大学の集大成のようなものであり、二度も立ち会えて幸せだった。彼女がいなくなったらこんなにいろいろ考えて楽しく聴けなくなるんじゃないかと思うとさびしいけれど、今はとにかく、恥をしらぬ姉馬鹿にて失礼。頑張ったね、すごくかっこよかったよ!!