深夜近くに豆腐よう。求めていた味がした。
 今日思えば昼過ぎに起きてからずっと喉が痛いのが、島唄オクターヴ上で叫んだ所為にしてたけど、少し風邪っぽいのかもと電話口で気付く。前に買ってあったカッコントウを探しだしたらおまけに生姜葛湯がついていた。さすがダイコク。
 というわけで、節分とともに諮問は終わりました。やりたいことははっきりしてきたけど、やはり詰めが甘いところが目立つ、と、指摘していただきもし、自分でも再認した。自慢の好奇心、これからは西部開拓だけでなくオタク的方向にも活躍させなければ。
 久しぶりにストレスフリーに眠り、遅くに目覚めてゆるゆるシャワーを浴び、いつものようにマロンクリームのトーストと、コーヒー、ホットミルク。ふと、須賀敦子の『ヴェネツィアの宿』を取り出して、読んで、背筋が伸びる。

私が自分の話をすることもあったが、そんなとき、思わず激しい口調になった。自分の中に凍らせてあったものが、マリ・ノエルのまえにいると、あっという間に溶けていった。どうして、仕事を辞めてまでローマに来たか、何が東京で不満だったのか、本を読んだりものを書いたりすることが人間にとって何を意味するのか。
「そんなことが知りたくてヨーロッパに来たんです」
「それはわかるけど」とマリ・ノエルがいった。「あなたがいつまでもヨーロッパにいたのでは、ほんとうの問題は解決しないのではないかしら。いつかは帰るんでしょう?」
「もちろんです。もう、どこにいても大丈夫って自分のことを思えるようになれば」
「さあ、そんな日はくるのかしら」
「わからないけれど」
「ヨーロッパにいることで、きっとあなたの中の日本は育ち続けると思う。あなたが自分のカードをごまかしさえしなければ」

 他に飛び込むことで己を確かめ高める。この図式はもはや使いまわされた陳腐なものであり、郷愁すら喚起すること(こんなにシンプルにいったらどんなにいいことか…!)を、漠然と同じようなことを考えて飛び込んでみた後にははっきりとわかる。それでも「カードをごまかしさえしなければ」という言葉にどきりとした。
 随所作主、という言葉をお茶で習った。随所に主となる。いつ何時、どこで何をしていても、おまえは己の主たり得ているか、という厳しい問いかけであるように思う。習慣化し、意識にも上らぬうちに自分のカードをごまかしてはいないか、と。その果てのない自分への問いかけを続ける困難には呆然とする。
 そこで、きちんと立ち止まってきたから、この人にはこういう言葉が紡ぎだせる。
 この先、地の果てでやり過ごすことなんかない、私のための春が待っている。それは同時に節目の春でもあり、周囲の変化に引きずられて呻きながら放蕩しつくしたこの三年、特に終わり半分を、冷静に振り返ってみるのもいいかもしれない。