ここ何日か早起きをしなければいけない日が続いていたんだけど、今日はちゃんと朝九時まで寝てコーヒーを二杯飲んだらどうにか人心地がついた!というのはどうも「人」としてはよろしくない気もするので、アクティヴに活動し続けるのを常態にしようと、一応思ってみる。だって、速い速度で動いていると時間がゆっくり進むということは、止まってじっと考える癖をつけると早く年をとるということではないの?という恐ろしく民間療法的なことを考えたりして。その反面、私には無駄な時間がどうしても必要だという気もする。どうにもこうにも疲れている時に限ってすぐには寝付かれないから本を読んだり音楽を聞いたり身体を動かしたり、そうして子供部屋ぐらしにプライヴェートらしいものを取り戻そうと無駄あがきをしているのかもしれない。
 内輪な話だけど*1、私が聞いてる授業の一つは、マスターの方法論で、我々の先生の代わりに、おそらく彼の一番弟子にしてドクター取り立ての講師がしゃべりにくる。最初は参考文献表の作り方とか論文の体裁とか形式的な話ばっかりでどうしようかと思ったけど最近彼のセアンスが終わりに近付くにつれて個人的な見解がばんばん飛びだすようになってきたら、案外面白いことを話すし(がっつり聞いてると心なしかはっきり発音してくれるし)かなり賢い人みたい。ちょっとチャーミングでもある。で、面白いのが、やたらマイケル・フリードの評価が高いこと。
 日本にいると、ソルボンヌは実証主義だから、基礎研究だから、みたいに教えられ、まるで古文書館で資料に埋もれてほとんど知られていない芸術家とか収集家を引っ張ってきて「全貌を明らかに」したり、「重要性に光を当てたり」するもんだという印象が横行しているが、案外中央から変わってるんだと思う。その点、本当に偉い先生がたの昔の印象を鵜呑みにしてちゃいけないと思う。勿論論文読めば気づくところだけど、戦いが始まってから向こうの手口が分かるのと、作戦会議から聞けるのとでは全然違う。
 多分、自分たちが「人と作品」のモノグラフィーを書きあげて安心したところにマイケル・フリードみたいなのが現れたもんで、しかも目茶苦茶をやるんじゃなくて、ちゃんと作品と事実に即して面白い解釈を広げて見せたもんだから、悔しかったんだろうな。今はもうあの辺の面白いのは大方翻訳が出て、外国語を読みたがらないフランス人も(外国語であるというのはアクセスできない言い訳になることがあるらしい)アクセスできるし。そういうわけで、今のマスターの子らはきちきち一次資料にあたるのは当然として、年表とか伝記はおまけに回しなさい、あなたの仕事は分析することだからね、「私は賛成できないね」って審査員に言わせたら儲けものよ、みたいなことを口を酸っぱくして言われているみたい。
 私は概ね賛成(フリードは最初読んだときはくらっときたし)。こうなると余計、太刀打ちしようとするには、今の倍くらいの早さで文献読めるようにならなきゃという気がする。こんなに資料があって、アクセスも良いんだから、ちんたらしてらんない。そして、まずは日本語で精確な表現を瞬間的にたたきだせるようになりたい。かくいうわけで、アクティヴを常態として生きていこうと試みるわけであります。

*1:研究の話なんだから、本当はこっちがオフィシャルで普段のひまつぶしんぶんが内輪かもしれませんね。でもなんかご飯の話の方が私的にはグローバルな感じがするのと、「みずやそらそらやみず」なのでその辺適当に。