バレンタインに実家から手製のお雛様の人形が届き、母上も粋なことをされる、と思ったのが昨日のことのようなのに、明日が過ぎたらもう仕舞わなければ。とにもかくにも、一週間に一度ずつ締め切りに追われるという恐ろしいひと月は、昨日一昨日のラスボス対戦を経てなんとか乗りきった形になり、今日は穏やかな春の日差しを浴びつつのんびり、週末には最愛の妹達のうちの一人がはるばるやってくる。
 昨日は、容赦なくセミナーが二つあったので二時間しか寝ていない妙にハイテンションな頭を引っ提げて出席してきた。前回に引き続き、この冬の展覧会についてのディスカッション。あらかじめ、ここ三カ月で「行ったことがなかった美術館」「記憶に残った展覧会…パリ/フランス/国外、のそれぞれ。ただし授業ですでに触れた『カバネル』(モンペリエ、ファーブル美術館)『モネ』(グランパレ、マルモッタン)『夢見た古代』(ルーヴル)を除く」「印象的だった本」を書いた紙を提出してて、先生が一枚ずつ取り上げて皆を巻き込んで議論していく形式。
 好奇心だけが取り柄の留学生には有利な質問…なこともあって、早速つかまってしまった。フランクフルト、シーンギャラリーの『クールベ〜近代芸術の夢〜』展に行ったのが、クラスで私と先生だけだったため。面白かった、といったらすかさず、へえ、どこがおもしろかったのか言ってみろ、と言われ、縮み上がりながら(これね、外国語だから尚更ハードル高いが、そうでなくても尊敬する方にどこが良かったと聞かれて答えなければいけないのは、最高に怖い瞬間の一つです)自画像の初期作品と風景画が粒ぞろいだったことと、単なる回顧展でなく所謂ロマンティックな側面を再評価するというストーリーが支持できること、と、相当しどろもどろに答える。
 先生は、息を吸って、全員に、質の高い作品が揃っていたら目は楽しいし発見はあるだろうが、それで満足してはいけないと仰る。作品を動かすのはリスクと紙一重なのだから*1、そのリスクに見合う企画者の側の目的なりテーゼがなければならないと。クールベ展の場合、クラウス・ハーディングというドイツでももう大家になりかかった研究者が長年温めてきた、「レアリスト」クールベのもう一つの側面「夢見る画家」クールベ(ここで私の「ロマンティスト」といったのを訂正して)というテーゼを展覧会を通して考えようという目的があって、そこは評価すると。そして、初期作品や風景のセレクションは確かに素晴らしいと。でも、後に進むにつれて章建てがクリアでなくなるのと同時に、展覧会場の制約もあって枝分かれし混乱を極める動線は、展覧会として一本の筋を通すに至っておらず、アイディアが評価できるだけに(自分は過大評価してるかもしれないが)非常に残念な展覧会であった、というのが先生の感想。
 と、聞いてて後から後から思ったんだけど、一本の線的なものとしてストーリーなりテーゼを構築するというのが、展覧会としても非常に重視されてるんだなーと。例えばネットでリンクで飛ぶのに慣れてしまってくると、論文書いてるときに「ああここんとこの説明リンクにおとしてしまいたい!」とか「この章の後にこのAの話が来て、その後はBの話なんだけど、このAの話とBの話はどっちかいうと続いているというよりは枝分かれしているイメージで…」とか多分こう書いても訳分からんであろうことを考えて悶々としてしまったりするわけである。でもまあ、論文だろうと小説みたいのんだろうと、今のところは、そういったニュアンスとかを含めて一本の文章で表現するすべを持たないことにはやっていけない、身につけなければいけない知的な能力だというのは理解してる。ただ、そういったリニアな感じの物の考え方・整理の仕方を本当にしっかり訓練してきた人にとって、一つの展覧会がかりそめにも何らかのテーゼを提示しようというときに、枝分かれしたりくるっとまわって元の部屋に戻ってしまったりというのは、私が「ちょっとわかりにくいな」と思う以上に、許しがたいことなんだろうな、と。

 近所の花屋の洒落た演出。ばらがばらという名前でなくても香りは同じかもしれないけれど、この花びらの形は譲れないわね。可愛すぎる。
 

*1:この点に関連して、最近全世界的に、展覧会に作品を貸し出す際に保険とかクーリエの随行のための諸費用などの経費以上の「謝礼」のようなお金が動くケースが増えているとのこと。いわば有料貸出と無料貸し出しの二つのシステムが併存している状態で、小さい美術館が特別展を開こうとしても作品を借りにくくなったり色々な弊害が出ているそうだ。