ヴァールブルグのアトラス・ムネモシュネの序文冒頭には、「自分自身と外部の世界との間に意識的に距離を持ち込むこと、それこそは人類の文明を創り出す行為と呼べるものだ」とある。
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 多分今日は訳わかんない文章になってしまうと思う。町田康の『告白』とラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』『メランコリア』について、ネタバレならまだしも読んだ&観たフリをするネタにもならないような中途半端な情報がダダ漏れするかもしれんのでご注意ください。ほとぼりが冷めたら消すかも。
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 町田康の『告白』の主人公熊太郎は、考えていることと口から出る言葉を一致させることができない。それに対して周囲は、河内弁でしゃべれる範囲外の事を考えない。熊太郎は「距離」が全くない、いわば文明化されていない環境に在って、にもかかわらず「距離」を背負わされたために、それを消化し管理するすべを持たない人間である。直線的で反射的な功利に基づく判断で動く周囲の世界に、論理や道徳、きどりを求めた結果、彼にとっては一切の外部世界のからくりは無駄に意味不明なものとなる。自分の考えが言葉に出来ない、それを言葉にしたところで一切通じないという深い絶望は、自分がその場になじまない人間であるということに言い訳を用意し、自意識がさらに凝り固まって扱い難い。世の中の方はといえば、短絡的なからくりを理解せずそのシステムに入り込めない人間にあくまでつめたい。もちろんそういった人間を一定数必要としているわけではあるけれど。自分が特別なのだという思いは歪みに歪んで一種役割は転嫁され、縫というこの世のものとは思えないくらい美しい妻が神の使いになる。勿論それも思い込みの中の話だ。
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 『ダンサー・イン・ザ・ダーク』、お金も言葉も持たない者に重ねて失明という障害を負わせてさらに不幸に落とし込んでおいた上で展開するあらすじは悪趣味な弱い者いじめであり非道極まりない。セルマは中学校なら絶対いじめられていた感じのぼさぼさ頭だし疲れていて、でも顔つきに幼さが残る。若い時に騙されて子供作っちゃった所為でもっとましだったかも知れない一生を棒に振ろうとしているシングルマザーだもの。
 にもかかわらず、笑顔が純粋で素晴らしいし、時に、特に踊りだすと驚くほど魅力的になる。
 救いがない、とみなが言うのでもっとひどいのを想像していたが、ストーリーに限っていっても、完全に理解し合あえるといえないにしろ心からの味方は存在し、最終的に手術は出来るのだし、ビルはちゃんとセルマ自身の手で殺されて苦しみながら死ぬ。最後も、タイミングが酷いにしても美しいし、女監守がいい味を出している。ビルなどでなく話すべき人に話していれば何らかのきちんとした援助や助言が得られたに違いないとは思う。だがそうするとキャシーやだれだっけあのトラック運転手の一番重要なことを除いてほとんど察してはいるけれど黙って彼女のプライドを尊重しつつ助けているという深さが出なかっただろうし、それにもかかわらず最後には全て暴かれてしまうところの残酷さが台無しになったかな。
 風景の寂しさ、ミュージカルの場面の鮮やかさ、特に印象的な緑色は感動するし、楽しくなる。音楽も素晴らしい。もっとも一切を操っているのがあくまで性悪な神なのでミュージカルの一こまが終わるたびに最悪の展開が待っている。それでも音楽は全てを忘れられる程に素晴らしい。救いというのは確かにある。
 設定の残酷さがそれほど堪えなかったのは、私の中に、もう世界はこういうところだというイメージが出来上がってしまっているからだと思う。そういう世界で、なんとか生きていかなければいけない人間が最後にすがるものとしての音楽は、言葉とお金の論理の中でそれをうまく操作することによって生まれるものとは違っているけど、商業主義の最たるものといえるアメリカの全盛期のミュージカルを糧にしている。でもセルマがもっと良い方法を探そうとしなかった一因の一つとして、妄想世界の充実と歌と踊りへの逃避が果たした役割は計り知れないので、このあたりに複雑な感触が残る。救いでもあり、元凶でもある。そしてそのどちらの見方も、所詮、言葉とお金の強力に働く世界からみた一面に過ぎない。
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 最近でたばっかりの『メランコリア』は、もっとずっと壮快な印象を残した。言葉とお金の論理も、それを汚れきっているという意識も、全ては一瞬でかき消える。絶望はあまりに深すぎて余人の干渉しうるところではないのだ。私たちは笑いながら死んでゆく、とまさにそういう感じ。
 世界滅亡を迎えるに当たって、ワインを開けて歌ってお祭りしましょうというクレアの提案は、私の考えとまるで同じだったから大層受けたけど、ジュスティンに一蹴される。最終的にジュスティンの提案で助かれる最後の希望の砦という感じのインディアンのテントの骨組みを拵え、少し前向きに滅びるのはいい方法だ。
 第二部でのジュスティンは、外部世界との齟齬を感じている点では、今までの不器用な人たちと同じなのに、それをすり合わせようという努力をほぼ完全に放棄してしまっているがゆえになんか変人すぎて宇宙人とかスーパーマンのような神々しさを醸している。それで最後すこーし期待してしまったりするのだけど、もちろん彼女が世界を救ったりはしない。第一部ではそれなりに外部世界となじもうとしているところが痛々しく、かなり感情移入させるところがあったんだけどな。外部となじめないという徹底的なポイントになる、リンゴ園の写真のシーンは分かりすぎて笑ってしまった。なんであなたはそんな顔で未来なんて言う者を無邪気に信じていられるの。