先日、新しいお散歩メモを探して書店の中を歩いていたら、アドリアン・ゲッツの『ヴェネツィアの陰謀』が平積みにされていた。おおーう、シリーズ三作目が出てしまった…私は積ん読状態の不憫な二作目のことを思い出し、何とか買わずに店を出た。フランスの国の文化財キュレーター、ペネロープが活躍する美術史ミステリであります。
 美術史というのは、歴史や考古学系の他分野と同様、かなりミステリの要素が強い学問である。と言ってしまうとあれかもしれないが、まあ言ってしまおう。加えて道具立てが華やかなことから、映画や小説の舞台にはうってつけだ。実際には運よくヨーロッパで研究が出来たとしても美術館や作家のゆかりの地などをうろうろしていればよい方で、古文書館や図書館の奥(悪くすると地下)に籠って埃っぽい資料とにらめっこしていることが多いのですが、事件が起こるのは専ら絢爛たる城館、崖にたたずむ廃墟の塔、あるいは伝説が眠る教会の地下聖堂。古文書はひとりでに炎をあげ、甲冑は剣を振りかざし、壁の紋章が血ぬられた歴史を呼び起こせば、ステンドグラスの暗号は真犯人を指し示す!
 とまあ、これで調子に乗って道具立てばかり美味しいとこどりすると、『ダ・ヴィンチ・コード』シリーズのような情けない先生を登場させる羽目になるわけだが、それだって観光気分にはなれるわけで。
 ともあれ、この手の美術史要素が入った探偵小説の最も定番と言えるのが、趣向を凝らした建築が事件に大きな役目を果たす「お館」もの。…ていってもここ、私この辺りを集中的に読んでたのは高校生の時なので、記憶があいまいなのとラインナップが古いのはお許しを。「これは外せないやろ!」みたいなのがあればまたご教示いただければ幸いです。
 小栗虫太郎の『黒死館殺人事件』のゴシックな道具立て、綾辻行人館シリーズや、二階堂黎人の『人狼城の恐怖』に出てくる仏独国境のいかにも不気味な要塞も魅力的だ。この延長上ともいえ、さらに謎解きに占める作品の位置づけが大きいのが、明治期の和洋折衷建築を舞台に「建築探偵」が活躍する篠田真由美の桜井京介シリーズ。探偵はイケメンではなく誰もが目を止める奇跡のような「美男子」、ワトソン役は瞬間像記憶の天才少年で、控えめながらBLな雰囲気も楽しめる。
 同じ作者の『アベラシオン』は大著だが、より美術史ミステリの要素が色濃い。というのもヒロインはピエロ・デッラ・フランチェスカの研究を志してフィレンツェに留学しようとすでに現地入りしている日本人女子で、指導教官になるはずの人物が殺される現場に居合わせたり天使のような金髪巻き毛の少年にレオナルドの素描をチラつかせて口説かれたり、絵にかいたようなイタリア貴族に誘惑されたりする(まァこんなことは実際にはまずありません)。
Intrigue a L Anglaise (Le Livre de Poche)
 それで、ペネロープ・シリーズであった。これは美術史ミステリというにも、かなり「美術史」方向に正統派である。といっても私基本的にミステリは道具立て重視で読んでしまうのでトリックの完成度云々の評価はあんまりちゃんと出来ないのだけどね。というのはおいておいて、作者は高等師範学校出(つまり文系最高峰エリート)の美術史の先生、パリ四に19世紀の美術雑誌についての博士論文を出し、私が来る前の年などは日本で言う准教授と講師のような立場で教えていた。(まったく何をとちくるっちゃったんだろ、この先生は??)
 そんなこんなで、フランス美術業界の裏側はなかなか丁寧に、皮肉混じりの愛情をこめて書かれているのがよそ者には楽しいところだ。主人公ペネロープは、国立文化財研究所(INP)卒のキュレーター(コンセルヴァトリス)で、エジプトのコプト織りの専門家。そもそもINPは年に数人しか取らない難関で、二年間みっちり教育を受けたあと、ゆくゆくは国立美術館やパリ市クラスの大きな美術館で研究職としての学芸員(教育普及の人は別ディプロム別採用みたい)、その後は館長クラスになる人を輩出するところである。ところが、ルーヴルのエジプト部門を希望していたペネロープは、最初は修業の一環でカルヴァドス県はバイユーの、バイユータピスリーの博物館に飛ばされる。パリでジャーナリストをしている彼とも離れ離れで腐りきっているところに事件が起こり…という次第。
 第一作では、好都合にも瞬く間に地方美術館の館長が殺され、我らがヒロインは館長として早速実権を握り、国立美術館の指令を受けてパリのオークションで文化財の優先買い上げ権(droit de préemption des Musées de France)を行使したり、ノルマンディーの古城に招かれたり。第二巻ではヴェルサイユに就任し、第三巻ではお決まりのヴェネツィアでの殺人だが、彼女はどうやら「学会」で来ているらしい…。
Intrigue a Versailles (Litterature & Documents)
 そんなんで、多分しばらく訳される気配もないので、現代の軽い小説をフランス語で読んでみたい方にいかがでしょう??