そういえば「本」っぽいカテゴリーを作っていないのであった。どうしよう。
 今日は美術史学会の西支部例会というものをお手伝いし、色々と考えさせられる完成度の高い発表を聞いたので、我も負けじと頑張らねばと思ってるところ。そこへきて、どういうわけか脱線して一週間ぶりにみずやそらの更新をしようというのはまあ、人の子の人の子たる所以、ご愛嬌という奴である。

聖餐城 (光文社文庫)

聖餐城 (光文社文庫)

 死馬の胎に縫い込まれて捨てられていたところを輜重隊(軍隊の後について移動して物売りをする一群)の女に拾われて育った少年アディは、旅の途中でユダヤ人イシュアを拾ったことがきっかけでヴァレンシュタイン候指揮下の騎兵として司令官に恵まれて昇進する傍ら、接触してはいけない賤民である処刑人の娘に恋をしてその単純な性質の最大限悩み苦しむ。イシュアは親族に裏切られて一筋の光もささない密牢に入れられるが脱獄、占星術や投資で宮廷になくてはならない存在になっていく。
 長い話だが、プロットが綺麗に対称を描いていて美しい。生き生きとした主要人物のやりとりは、背景の、泣く子も黙る30年戦争の東ヨーロッパの凄惨な情景の淡々とした真摯な描写のなかで引き立ってとてもよいドラマになっていると思う。実際、戦下の様子は酷いものだ。給料の碌にあたらない傭兵が、村や町を踏み荒らし、食料や金品を奪い、女を犯し、村人は子供まで面白半分に拷問して殺して去っていく。ゴヤの『戦争の惨禍』の光景。特に辛いのが包囲戦で、食べ物が枯渇し死人の出始めた市街をやがて疫病が襲いかかる。いつ果てるともしれない飢えと窮乏の恐怖はユルスナールの『黒の過程』のミュンスターでもあったけど、やっぱり小説っていう形だからこそじりじりくる。そういった被害を防ぐための重要な策は、略奪見逃しの税金であったり、食料の補給線であったりして、財政的に潤っている軍隊は給料が滞らず、指示系統が一貫してモラルも高いので勝ちを重ねる。その金の流れを掌握することこそ、ゲットーの外の「隣人」はいつ敵になってもおかしくない状況で長く生き延びるためのユダヤ人富豪の処世術となる様子がよくわかる。最後の方で出てくるように結局、戦争は金とモノであって、そこでは宗教も大義名分になっている。
 ところで、私はたまに凄くドライに、自分の力で如何ともしがたいものを神様にアウトソーシングするのは、例えば自殺とかいう手に訴えずになんとか生き延びていくためにも案外有効なのではないかとか思ったりするのだが、このしょうもない世界で生きていく何ぞという理不尽なことをさせる力は、また同時に他人に対して常識的に考えてあり得ない悪事をやってのけたりするエネルギーにも容易に変わるわけで、やっぱり宗教は劇薬で難しいと思う。
 また、自分自身は筋金入りの平和主義者で戦争反対なのだけど、専ら被害者サイドの負けそうになってからの市民目線のはだしのゲンを観てひと夏悪夢にうなされるたぐいの平和教育は、恐怖から思考停止を招くように思う。感情的に「やだー」って思ってたものは何かの拍子に感情的に「やんなきゃやだー」に方向転換してしまいがちだ。どれだけコストのかかるものなのか、それをすることで何が得られるからなおやるのか(その場合コストを最小限に抑えるにはどうしたらいいのか)、そもそも、もしかして机を並べて一緒に仕事をしたり勉強したりしてひょっとしてハグとかしてきゅんとなってたかもしれない人で誰かの家族であり恋人である人と殺し合うなどという狂気、またそれがそんな実感なんて伴わず、血とか死体とか観なくてもきわめて効率よく出来ちゃう狂気を、つくり出すのはどういうメカニズムなのか、だれが、どんな得になることがあって作るのか、詳細にかつ冷静に分析してから平和ってのは選び続けなきゃいけないように思う。
 そういうことをフィクションを読んでできるわけでは勿論ないけど、小説を読んでそれを出発点にそんなことをぐだぐだ考えたりすることがあるわけです。少なくとも、一番の敵である、想像力の欠如に対抗する力にはなる。