岩波講座 文学〈6〉虚構の愉しみ岩波講座『文学』の6巻「虚構の愉しみ」のなかで、清水真砂子さんが児童文学について書いたものがあったのを思い出す。エンデの『モモ』とル・グィンの『ゲド戦記』を比較したエッセイである。
 それによると、『モモ』は寓話であって物語ではない。懇切丁寧に出来事の意味を解き明かしてくれる語り手と、役割を与えられた、観念的な存在(というとまず思い浮かぶのは灰色の男達だが、モモだって生きている女の子の一人ではなく、大人の頭の考え出した「女の子」である)である登場人物たちがメッセージを伝える。
 一方、『ゲド』については、主人公の友人の妹の出てこない弟妹や、アースシーに点在する島々の歴史など、物語の進行にさほど重要性を持たない細部描写の例を挙げて、そこに描かれるのが、一定のメッセージを伝える意図をもった寓話であるというより、歴史とコンテクストをもった叙事詩であるということが解き明かされている。もう少しちゃんとレヴューが出来るといいのだけど、手元に本がないので言葉の使い方などがおかしかったらごめんなさい。
 読んで、なるほどなーと思った。ル・グィンは命の大切さを伝えるために「命は大切だよ」というなんて野暮なことをしなかったし、それを伝えるためにあの壮大なアースシーの世界を作り上げたのでもないのだろう。世界は先にあって、そこで生きる者たちがいる。彼らを語り、語られたものを読むことで一緒にその世界に生きた者たちに、ひょっとしたら何らかのメッセージが伝わるかも知れないが、それは目的ではない。そこで共に生きることが出来ればそれでいいのだ。
 清水真砂子さんは、『ゲド』の翻訳者でもあり、少しゲド贔屓かな。でも、熱烈なゲドのファンではないが、児童文学といえばエンデか『星の王子さま』なんていう風潮に肩を竦めたい私などにとっては、胸がすかっとする。
 と同時に、これは読み手にいえることだとも思う。知らず知らず、安易に教訓を引き出してその本質を捉えたような気分になることで、酷く勿体無いことをしているかもしれない。読書感想文用に教訓を引き出すだけなら、『ナルニア国物語』も『指輪物語』も善と悪の闘いにされてしまいかねない。「結局どういう話なの?」と聞かれても、簡単には答えられない隙間に本当に楽しい事が隠されている。