それでは、珍しく予告通りに種明かし!

 冬の陽光を受けてこぼれるような色。ほとんど壁の存在を忘れさせるほどの存在感を放つ赤と青の濃密な色調のステンドグラスはパリではここだけ!シテ島のサント・シャペルです。

 財政難に苦しむ東方のキリスト教ビザンチンの皇帝ボードワン二世が、血縁でもあるフランス王ルイ九世にまとまった数の聖遺物(キリストの処刑の一連の流れの中で使われ、キリストの身体に触れたりしてその痕跡を残しているとされてるもの。ここでは茨の冠と十字架の一部が入っていたそうな)を売却したのが1239年から1247年のこと、そうしてパリにもたらされた聖遺物を納めるために、1240/42〜1248年に急ピッチで建設されたのが、このサント・シャペルである。王の礼拝堂であるということ、従ってすでに建物の建っている敷地内部に納めなければならず、さらに下々の信者と王の場所を区別する二階建ての構造になったという事情がデザインにも効いてくる。
 (もう一つ、数年という異例の速さで施工されたという点は、彫刻とか装飾に響いている…というのも、彫刻が一つの工房の手に負えなかったのか、最低三つの違う手がみられるとか。これについては、ちょっと修復とかコピーとかの問題が絡んできてややこしいのでちょっと飛ばしておきます)

 建築は、代表的な盛期ゴシック様式。フランス語ではゴシック・レヨノンといい、1230年のサン・ドニ聖堂に始まり、パリからイル・ド・フランス、そしてヨーロッパ中に拡がって14世紀一杯まで続く。窓を広くとり、壁の圧迫感を極力減らそうとする点、また、半円を組み合わせた花模様のような落ち着いた繰り返しの装飾が特徴だ。この装飾はステンドグラスの上や、内部の柱の側に沢山見ることが出来る。
 もっともサント・シャペルについては西側ファサード(入口側)は15世紀に修復されたものなので、火の玉がぐるぐる飛びまわるようなゴシック・フランボワイヤン。
 外観がどちらかというとシンプルなのは、建物混みこみの敷地内に出来るだけ内部の荘厳さと収容人数を確保したかったのに加え、キリストの受難にゆかりのある品を奉るという役割を鑑みて、建物自体を聖遺物箱に似せているため、とか。

 屋根の重みに耐えきれずに壁が外側に崩れそうになるのを防ぐため、大聖堂などでしばしばみられる腕のように突き出して柱に中から外への力を逃がすフライング・バットレスがないので、他の方法で重みを支える工夫がされている。つまり、二階建ての下に行くほど壁は厚くなっており、窓の間を支える柱は大きく外に張り出している。さらに、一つ前の外観図の柱のてっぺんの方にぴょこぴょこみえるピナクルとよばれるピラミッド型の飾りは、柱を地面にしっかりと植えつける重しの様な役目を果たしている。

 大きく開けられたステンドグラスにも秘密があるのが外からよく見るとわかる。縦長の窓の中ほどと上の方に、二本太い線が水平に走っているのが見えるのだが、この金属は見えない部分も繋がって輪になっていて、建物全体のベルトといった趣で、箍のように柱を束ねる働きをしているらしい。

 地上階は上の重みをしっかり支えるべく柱がリズムを刻み、さらに壁沿いに騙し窓のように並ぶ小さな飾り柱は空間の狭さからくる圧迫感を和らげる。

 ルイ九世、列聖されてお隣の島の名前にもなっている聖ルイ王の彫像はコピー。ちなみに、地上階・二階の内部の壁の着色や壁画は全て19世紀の修復によるもの。特にこの地上階は群青色に黄色いユリの文様が欲しのように散る天井が夢見がちで素敵なのだが、これは全て19世紀前半に議論されて一般的になった多彩色(ポリクローム)の中世のイメージを反映している。

 王様の礼拝堂である二階には、我々観光客が使う階段ではなく、隣の建物から直接入っていた。昔は地上階と二階はめったなことでは行き来が出来ないし、行き来する必要もなかったのだ。見事な聖遺物の台は、唯一中世のものが残っていた向かって左側の階段を手掛かりに作り直されたもの。

 奇跡的なよい天気で、陽射しが魔法のようでした。